地域課題解決のために必要なことは「繋がる」ことだと思い、「華酒田ねっと」という任意団体を勝手に作り活動を始めました。自分の住む50メートル範囲を守って「一隅を照らす」同志たちと繋がっていくことで、大きな街の温かい灯りが広がれば良いなというのがコンセプトで、誰かがやろうとしてることを邪魔せず、動かない人は口を出さない。小さな花でも、ドクダミのような好まれない花でも自然の植生のように百花繚乱して良いんだ。
NPOが勢いのあった時代でしたが、個人が団体のミッションに縛られるのではなく、NPI(Non Profit Indivisual)たちが様々な団体に所属し、団体の垣根を超えたNPN(Non Profit Network)を形成していこうと動き回っていました。
そのときは日和山ホテルの経営には関与しておりませんでした。
2006年街おこしポッドキャストを発信してたり
まだiPhoneもタブレットもなかったガラケーの時代、市民有志の協力を仰ぎ街中に公衆無線LANを敷設しました。
多くの藤沢周平作品をはじめ、「おくりびと」、「ICHI」、「すき焼きウエスタンジャンゴ」、「山形スクリーム」などの映画を生み出した庄内映画村の石倉オープンセットを守るためボランティア雪掻き隊を組織し、6年間冬場毎週末活動しました。
日和山の皇大神宮(日和山関所裏)の修復に名を連ね、定期清掃ボランティアを手がけました。
鶴岡と酒田の間になんとなく横たわっている「相互不信」、先祖から伝わった負のDNAを、ちゃんと知ることで払拭しようと動き回り、鶴岡の皆様とも親交を深め、あるとき「お互いの良いことだけを参加者みんなで発表し合う」ワークショップから始めました。
その後、庄内映画村の雪かき隊の隊長など務め、庄内一円から地域全体の発展を願い汗する仲間たちとのネットワークを広げることができました。2008年1月、活動中の雪山の中で、映画「おくりびと」が日本初の快挙、アカデミー国際長編映画賞を受賞しました。45歳の時でした。
47歳の年、雪かき作業中に足を痛めてから、手足の痺れがひどくなり、5月ごろ体全体が冷え切って病院で検査したところ「大腸癌」が発覚、ほぼイレウス状態。手術を待つ間、入院期間中もワークショップや神事などに参加し続け、一時は死を覚悟したものの、手術は成功し、術後の経過も順調で、再び「命を使って良いよ」との天の詔。
地域の絆を育む活動へと恩返しの方向性が変わっていった。